近ごろ町の子どもたちの間で「おもちゃの時計」が流行っている。
その時計は老時計技師が手遊びに作ったもので、文字盤の天頂には十二時の目盛りが一つ刻まれ、一本の針が時を刻んでいる。時計の針は時の運行に従って少しずつ動き、いつも十二時になるときっちり天頂を示す。
老時計技師は、この「おもちゃの時計」をタダで子どもたちに呉れていた。
おもちゃと言っても、文字盤の目盛りと針の数が少ないだけの正しく時間を測る時計である。
ある時、老時計技師の弟子は言った。
「師匠。こう流行ってしまっては仕事にも影響します。それに、おもちゃとはいえ師匠の造る時計です。いくらかお金をとったとしても、子どもたちの親が払って買ってくれるのではないでしょうか」
そう言った弟子の顔を、老時計技師は暫しじつと見つめ、そしてこう答えた。
「それでは意味がない。まったく意味がないんだ。おまえさんはあの時計をおもちゃというがね。あれは子どもたちにとっては、じぶんの時間そのものなんだよ。親や、だれから指図されたものでない、じぶんの時間を子どもたちは時計に見るんだ。……それはね、儂やおまえさん、それに子どもたちの親にはもう手に入らないものなのだ」
老時計技師の言葉に弟子は首をかしげる。その表情には不可解が見て取れた。
弟子のその仕草を見た老時計技師は苦笑して言葉を継ぐ。
「何、何時かおまえさんにも分かる時が来る。おまえさんの時間はまだまだあるのだから。それに、老い先短い儂が子どもから金をとったところでなんになるかね」
いつか町の大人たちの間で「おもちゃの時計」が話題にあがった。
それはむかし、老時計技師が造り、当時子どもだった大人たちに呉れたものだった。
大人たちはもう「おもちゃの時計」を身につけることはない。大人にとって、目盛りが一つで針が一本の時計は不便だからだ。
いま大人たちが身につける時計といえば、目盛りはたくさんあって針は三本もある。
じぶんの時間は随分細かくなったものだ、とかつての子どもたちは微笑んだ。