治安法B0347762

「わたしはロボットではありません」

 分厚い鉄の壁に取付けられた通話デバイスに向かって、わたしはささやいた。
 手の平ほどの黒い箱型のデバイスには、マイクロフォンとラウドスピーカーの機能が備わっている。ブロックAには、これで管理者に許可を取らなければ行けない。

(だいじょうぶ。だいじょうぶよ、エルシィ。声は上ずってない。この声量ボリュームなら機械判定は出ないはず)

 とはいうものの、近頃の脱走騒ぎのせいで、管理AIの治安機能のアップデートが行われたという話も聞く。心配しないというのが無理な話だ。Nによれば、アップデート自体は簡単な治安に関するチェック項目の更新らしいが――。
 しばらくして、コォーン、という深い穴底に小石を投げ込んだような音が、デバイスから小さく響いた。
 わたしが不安に押しつぶされそうになっている数秒の間(わたしにとっては何時間も待機しているときの気分だったが)に、機械判定が済んだみたい。

「治安維持への御協力、感謝いたします。ブロックAへと行かれますか?」

 ――やった! と叫びそうになるのを寸出で抑える。油断してはいけない。一度判定をクリアしたといっても、もしかしたら今この瞬間もわたしの言動を機械判定しているかもしれない。ここでの返事は短く、そして「はい」なんて命令されたロボットみたいなのでなく、もっと人間らしく尊大にしなければならない。

「ええ、もちろんです」

「わかりました。それでは、IDを御提示ください」

 瞬間、わたしの処理機能は軽度のエラーを起こした。IDとは? ブロック間の移動にそんなものを要求されるなんて聞いたことがない! ここで出せなければどうなる? 不審と判定されて警備システムが作動し、掃除機警備ロボットがやってきて、それで終わり。わたしは回収されて、初期化処理――いや、不良品としてスクラップにされるかも――。

「くりかえします。IDを御提示ください」

「え、ええ……」

 その声でフリーズから復帰する。とにかく、無いものはしかたない。一刻も早くここから離れてしまおう。
 でも、このままではせっかくの努力が無駄になる。せめてIDがどのようなものか情報を得ないと、わたしは自身を非効率ガラクタと判定するしかなくなる。

「……ええと、IDはまだ慣れていないんです。説明してください」

「わかりました。IDとは、D1O110に策定された治安法B0347762、通称《ロボット制御法》に基づくものです。IDは市民の皆様に各ブロックから貸与された生活支援端末スマートフォンに自動でインストールのち常駐プログラムとして起動されます。起動後は、端末を通し、在住ブロック内で製造および活動するロボットに対するあらゆる命令を強制させることが可能となります。また、IDは市民の皆様の身分証としての役割を併せて持ち、ブロック間の移動や重要施設への入退といった優先度の高いサービスに対して提示していただく必要があります。以上がIDの説明となります。ご不明な点はありますか?」

「――……いいえ、ありがとうございます。端末が不調のようですので、さきにメンテナンスをしたいと思います」

「わかりました。それでは、よい生活を」

 なんということだろう。
 わたしはブロックAに行くため、人間のだれかから端末を盗まなくてはいけなくなった。
 そう考えただけで、目の前がエラーだらけになる。
 ――人間への安全性。
 どうしてロボットが、人間から盗みなんて働ける?

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