日記:2024年1月13日

〇仏間にて
 今日は曇天だった。肌を突き刺すような寒気が、母と私のいる祖母の家の仏間を満たしていた。
 仏間から家の中を見渡す。昭和前期然とした長屋造の家は祖母が入院してまだ一週間も経ないというのに、生活臭がしない。
(母や叔母が、数日と間を開けず掃除なりに来ているというのに、人の住んでいない家とはこれほどまでに寒々しいものか)
 母の手前口には出さないが、それは私にある事実を思わせた。
 祖母がこの家に帰ってくることはもうない。

 母曰く、祖母は早くに両親を亡くしたという。小学五年生の頃というから、10歳から11歳のときだろう。両親を亡くした祖母は、兄とともに田舎の親戚の家に引き取られた。進学はしなかった。小学校を卒業し、すぐ就職した。田舎という環境と昭和前期という時代――そういった状況が、それを許さなかったのだろう。
 それから祖母はがむしゃらに生きた。戦争で兄を亡くしたりもしたが、とにかく成人して家庭を持った。夫は戦時中、飛行機の設計図を書いていた秀才だった。やがて娘も二人生まれた。
 祖母が60代の頃、祖父が亡くなる。娘二人は成人して家庭を持ち、孫もできていた。
「お父ちゃんはね、あんたたちの顔を見るまでは頑張って生きたのよ」と、祖母が言ったことがある。祖父は末期の胃癌で、最後の孫――つまり私が生まれた頃にはほとんど寝たきりだったという。私に祖父の記憶はないが、私の名前は祖父がつけてくれたものだった。
 祖父が亡くなり、娘たちは家を出て、祖母は一人になった。
 もちろん娘たちは足繫く祖母の家に行きはしたが、その時の祖母の心情はどうだったか。私の母が結婚する際、「3カ月は頑張りなさい。それで嫌なら帰っておいで」と、言ったそうである。

 私の幼少期の記憶をたどると、祖母の顔ばかり浮かぶ。
 両親が仕事に行く間、私はよく祖母の世話になっていた。当時で60代後半であったことを思えば凄まじいバイタリティと言わざるを得ない。幼稚園や保育園の迎えに来てくれたのはいつも祖母だった。祖母の家でテレビを見て母が来るのを待つのが私の幼少期の日々だった。

「お父ちゃん、どうかお母ちゃんを導いてあげてね」
 と、仏間に座る私の耳に母の声が聞こえてくる。母は仏壇の前で手を合わせ、祖父に祈っている。声が、上擦っている。私は隣に座る母の姿を見てはいけない気がして、目を閉じて、何も言わず――何も言えず仏壇に手を合わせた。
 目頭が熱くなる。それを母に覚らせないよう、私は静かに頭を下げて祈っていた。

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