〇「喜劇」と「悲劇」
世の中には、喜劇的なるものと悲劇的なるものが存在する。両者の区分は、私の中で今一つ曖昧である。
私は考える。――喜劇とは劇中人物が「運命を知る事」であり、悲劇とは劇中人物が「運命を知らぬ事」ではないか?
死は、生命の辿る窮極の運命である。
人はだれでも己の運命を――死に至る生を知る。「メメント・モリ」に表出されるそれは、王・貴族・平民の別なく、生きている者はみな死の星の下にあるという事実を示している。
これに当てはめるなら、大半の人間にとって人生とは喜劇だろう。
人間は己の運命を知っている。死を想い日々を懸命にする人生は、悲劇よりも喜劇と呼ぶのがふさわしく思われる。
喜劇はそれでよいとする。では、反対に悲劇的な人生とは何か?
先に、『悲劇とは劇中人物が「運命を知らぬ事」である』と書いた。
人間は運命を知る。いつかは死ぬと想っている。だが、その「いつか」が、まさか「次の瞬間」とは考えもしない。
悲劇とは、この「まさか」を言うのではないか?
つまり、ある人物の生誕から臨終にかけての物語は喜劇であるが、その物語の一部分を取り出したとき、そこにある「まさか」の部分が悲劇と呼ばれるのではないかと思うのである。
〇今日、3月11日という日付は、ある一つの意味を持っている。私はその意味について今日になるまでまったく忘れていた。が、ニュース番組や記事で「東日本大震災」の話題を見るにつけ、一つ思った事がある。
あの地震によって亡くなった人たちの人生は悲劇だったか?
違う。たしかに地震やそれに関連する死というものは悲劇だろう。が、それだけをとって一人の人間の物語を悲劇と呼ぶのは納得しかねる。この不納得をうまく言語化できなかったから、今日の日記は、喜劇だ悲劇だという思考で何事かをかたちにしようとした。