日記:2024年7月23日

〇晴れ。依然猛暑。天気予報では連日外出を控えるよう警告しているが、不確定の健康被害のために労働を諦めるという選択を人類はできない。どれほど暑さに身の危険を感じようとも、文句を言いつつ労働に勤しむのである。むろん、ご多分に漏れず、私も。

〇以前、リリアン・H・スミス『児童文学論』の話題を挙げたとき、文学は「非常用の錨」となる、という言葉を引用した。今日、偶々読んだ論文にその理解を深める記述があったから、なんとなく考えた事をメモする。
 カズオ・イシグロ『クララとお日さま』の内容に関連する論文だった。その中で、文学作品に表現される「孤独な少女の、想像上の友」についての分析をしていた。
 人形、日記、硝子に映った自分、風の音……その友は有形無形に表れる。想像上の友は、自己の理想と内省を司り、私の言動を常に客観視する。私は孤独なとき、その友との対話を通して理想を――私の「あるべき姿」を見る。
 多くの場合、この想像上の友は幼少期の終わりとともに私の認識から消失するが、私の内面には居続け、私が現実に傷つき壊れそうなとき、再び現れ、私の「あるべき姿」に戻る手助けをしてくれる。
 この友は、幼少期の想像力を育む過程で生まれる。
 ここで「非常用の錨」が見えてくる。幼少期の想像力とは様々の経験によって育まれるものだが、その経験のうち、文学――物語に触れる事の占める割合は決して少なくない。とすれば、幼少期に触れた文学の影響は、ずっと後まで持続するとも言えるだろう。
 ぼんやりと、そんなことを考えた。

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