〇晴れ。寒い日はゆっくりと風呂に入る。体の芯からじんわりと温まるのを感じながら、リラックスした脳が取り留めのない思考をするに任せていると、ふと何事かを思い出す。
それは苦い思い出であったり、ほろ苦い後悔であったり、ときおり愉快な記憶であったりする。
今日も入浴をしていたら、ふと、高校のころの出来事を思い出した。
〇その日の古典の授業では、源氏物語だか枕草子だかを扱っていた。たしか、図入りの資料集を用いて当時の風俗を学ぶという内容だったと思う。
いつもの授業風景だったが、一つだけ、いつもとは違った。
古典担当の女教師が、水干姿で授業を行ったのである。
これはその授業の記憶ではなく、この稿を書く段になり調べた事だが、水干とは平安時代の男子の装束であるらしい。
教師にその意図があったのかは分からないが、授業内容に関連する装束とはいえ、なんの予告もなくコスプレ――しかも男装をしてあらわれるというのは異様である。
教師の突然のコスプレに生徒たちは盛り上がったか?
いや、教室の空気は冷めていた。それは困惑と、高校生という年代特有の大人への冷笑的態度、そういうものが醸す雰囲気だった。
そんな雰囲気でも授業は恙なく終わった。問題はなかったというより、だれも問題にしなかったのだろう。
当然の反応だった。周囲の目を気にする高校生という生き物にとって、教師が突然コスプレ姿であらわれ、微妙な空気のなかで普段通りの授業をするという経験は処理に困る。――見なかったことにしよう。そういう結論に辿り着くことは想像に難くない。
だが、私は授業後、その教師に話しかけた。
理由は単純で、そのころの私は文理選択の結果、仲の良い友人たちと別クラスになり孤立していたから、周囲の視線を気にする状況になかった。
たしか、水干の種類や動きやすさは如何といった質問をしたと思うのだが、その教師がどう答えたのかはもう記憶にない。
ただ、私に質問されたその教師が、嬉しげだったのだけは覚えている。
〇私の高校時代は輝かしいものではなかった。昏い青春の思い出にあるのはカメラと図書室の本ばかりである。
だが、そんな昏い青春も、時おり光彩を放つことがある。それは友人と三島由紀夫の『金閣寺』を語らったことであったり、消去法的に部長となり空回りしたことであったり、そして妙な教師との思い出であったりする。
女教師の水干姿は、高校生という生き物の温度感を見誤り、ウケると思ってしてみたに過ぎないのだろう。教師にしてみれば、ただの失敗談で今となっては思い出したくもない黒歴史なのかもしれない。
それでも、私にとっては苦い思い出ばかりの高校時代の数少ない愉快な思い出である。