〇晴れ。万城目学『八月の御所グラウンド』読了。面白かった。今年の夏も下鴨神社糺の森で行われる下鴨納涼古本まつりにゆくつもりだが、ついでに御所へ足を運んでもいいかもしれない。いや、やはりその時になると、暑さでそんな元気は無いだろうが。
私は学生時代を京都で過ごしたが、御所G(グラウンド)の存在については知らなかった。むろん御所には何度か行ったことがあるし、今思い返せばあれがそうだったのかしらん、と思い当たることもないではないが、私の記憶にある京都は「暑すぎ」「寒すぎ」「人いすぎ」で塗り潰されていて、そこに時々古本市の光景やら、四条河原町から寺町通あたりを暇があればぶらついて貴重な時間を無為に過ごしたことやらをなんとか思い出せるくらいである。
そういえば、葵祭の頃、偶さか大学の講義が一限だけで終わって暇だった私は、上賀茂神社から下鴨神社まで歩いたことがある。
葵祭の路頭の儀の巡行ルートは京都御所から始まり、幾つかの通を経て下鴨神社で社頭の儀を行った後、再び出発して上賀茂神社へ至る。
私はこのルートを逆走する形でバスで上賀茂神社へ行き、そこから歩いて賀茂川沿いに歩き、葵橋を渡って下鴨神社で走馬の儀(社頭の儀の一環として行われる儀式のひとつ)を見物した。路頭の儀の行列を見るつもりなどハナからなかった。というより、当時からして葵祭は見物客の多さ凄まじく、巡行ルートの沿道には行列を一目見ようと居並ぶ見物客が溢れ、とてもじゃないが初夏の気配漂う五月の京都でその中に混じる気には慣れなかったのである。
走馬の儀は素晴らしかった。儀式そのものというより、初めて近距離で見た馬の筋肉の躍動や息遣い――圧倒的な生命の迫力に見入った。上賀茂神社から下鴨神社までだいたい二三時間かけて歩いたが、その労力に見合った体験だった。路頭の儀で人混みに揉まれて行列の行進を見るよりよほど良かったように思う。
だが結局、私が京都で見た葵祭はこれっきりであった。
人混みを厭うたのが理由第一だが、走馬の儀で聞いた声を思い出しては行く気が失せたのである。
「あれはダバだね」
と、糺の森で走馬の儀を見物する私の耳朶に声が聞こえた。
はじめ私は、それが走る馬に向けられた侮蔑の言葉――「駄馬」であると理解できず、理解するにつけ、なんてことを言うんだと声の方に目を遣ると、そこには観光客と思われる集団に混じるカメラを構えた中年の男がおり、男は立ち入り禁止の柵から腕を伸ばして走る馬を撮りながら、馬の走りを評しているらしかった。
「こいつはよく走るな」「これは駄馬」「こいつも駄目だな」などと男は無遠慮にカメラを向けながら馬たちを評していく。癇に障った。そもそも男の評価基準は曖昧そのものであり、言うまでもなく、男のような輩に至近距離で囲まれた馬とその騎手は本来の走りができるわけもない。私が見た馬たちはみな神事に相応しい立派な姿をしており、男の言う駄馬など一頭たりとて存在しなかった。
お前のようなアホがいるから、と、言ってやりたかった。
お前のようなアホがいるから、美しいものが駄目になる。――
私にとっての京都の思い出はこんなことばかりである。美しいものはたくさんあったのに、そこにつまらないケチが付いている。それは心無い観光客の一言であったり、気候であったり、理不尽を飲み込まなければならなかった己の弱さであったりする。『八月の御所グラウンド』を読んで、私はそういった京都のことを思い出した。
私は今年の夏も下鴨神社糺の森へ行くつもりである。
そこで汗だくになって、古本を漁るだろう。