日記:2024年1月8日

〇昨夜から未明にかけて吹雪いたらしい。『らしい』というのは、その時間は寝ており朝起きたら窓の外が雪景色だった由。昼頃にはすっかり晴れていたものの気温は依然低く、寒気が肌を刺す。

〇まったく接点のないものが繋がる時がある。以前、ホリー・ジャクソンの『卒業生には向かない真実』を読んだ時、私は結末に不満を持った。べつに物語がつまらなかったとかではなく、三部作のシリーズを締める作品としては面白かったので、ただ結末の展開が私の望むものではなかったというだけの話だが、詳細を省くと、「正義の罪」が肯定されていた。
つまり、「正義を為すために犯される罪は正義足り得るか?」である。この問題における現実に生きる私の解答は、もちろん否である。これは倫理論理の両面において合理化できるものであるし、そうであるからこそ人間はポリス的動物足り得る。個人的正義と社会的正義は時に相反するが、人類社会は個人的正義より社会的正義に優先される合意によって成り立っているという理解は、何も私だけのものではないと思う。
要するに、私は、私の理解の逆を行く結末に対して不満を抱いた。と、ここまで書いて、似たようなこと考えさせられた小説を以前に読んだと思い返す。辻真先の『たかが殺人じゃないか:昭和24年の推理小説』だ。これも三部作のシリーズだった。副題のとおり昭和24年――終戦まもなくの時代が舞台なので、題名の『たかが殺人じゃないか』というのは戦中から戦後へと推移する価値観や個人の正義の持ち方を示唆している。これまた詳細は省くが、「正義の罪」を語る場面が出てくる。凄味のある場面で、ここに題名や作品の主題が集約されている。示される結末は、私の理解に沿うようなものだったように思う。
こういった「正義」についての理解は、何も上記の作品だけでなくあらゆるところで語られている。私の理解は「正義の罪は有り得ない」だが、当然ながらこれは満場一致の解答とはならないだろう。ことフィクションにおいてはなおさらで、秩序を損なってでも為される正義の罪が肯定されることも、それが娯楽足り得ることも当然ある。私は不満に思ったが、だからといってフィクションのそれを否定するわけではない。それはそれでいい。

〇今日やったゲームのイベントで、たまたま「正義」について語られていて、フィクションの中で語られる現実の「正義」とフィクションの「正義」という奇妙な構造が面白く、ついでに上記の作品の感想を思い出した。

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